アントニオ猪木の本名や国籍は?生い立ちが壮絶!力道山からスカウト

今回は元プロレスー・アントニオ猪木さんの本名についてみていきましょう。

アントニオ猪木さんの本名や国籍、生い立ちが壮絶という件や力道山からスカウトされた経緯についても調べたいと思います。

 

アントニオ猪木の本名は?

アントニオ猪木の本名
猪木寛至(いのき かんじ)

アントニオ猪木さんといえば、「いのき ボンバーイエー」と「元気ですかー」などの掛け声で知られていますね。

プロレスブームの火付け役ともいえるアントニオ猪木さんですが、本名はもちろん別にあります。

アントニオ猪木さんの本名は「猪木 寛至(いのき かんじ)」といいますが、1991年にイラクのシーア派聖地・カルバラーでイスラム教に改宗しているので、ムスリム名「モハメッド・フセイン」もあります。

そのため、本名と別に「モハメッド・フセイン・イノキ」という名前も持っています。

 

「猪木」の名字の全国順位&人数

「猪木」という名字は「いぎ」とも読むそうです。

全国順位6,356位で、人数にするとおよそ1,500人ほどになります。

 

「猪木」の由来

「猪木」の由来は清和天皇の子孫や現島根県西半部にあるようです。

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ここ最近では岡山県倉敷市に多数みられる名字となっています。

 

アントニオ猪木の国籍

アントニオ猪木さんは幼少期にブラジルに日本からの移民として一時的に移り住んでいます。

帰国後は日系人と見られたり、国籍もブラジルだと思われていました。

しかし、国籍を変えたことはないため、生まれた時からずっと日本国籍のようです。

 

アントニオ猪木の生い立ちが壮絶

アントニオ猪木さんは父親・猪木佐次郎さん、母親・文子さんの間に誕生し、10人兄弟の9番目という大家族の中で育ちました。

5歳の時に父親が亡くなってからは実家の石炭問屋が倒産し、極貧生活を強いられます。

アントニオ猪木さんは幼いながらも貧困から抜け出すため一家でブラジルへ移住し、そこでは想像を絶する強制労働の過酷な日々が待っていました・・・

 

父の死→実家が倒産→ブラジルへ

父親はアントニオ猪木さんが5歳の時に亡くなってしまい、生きているころは石炭の問屋を営んでいました。

しかし、その問屋も第二次世界大戦後にエネルギー資源が石油に変わった影響をうけ倒産します。

父親が病気で他界してからはアントニオ猪木さん一家は貧困におちいります。

アントニオ猪木さんは12歳の頃から横浜市立寺尾中学校に通い始めましたが、一家(祖父、母親、兄弟たち)は貧困から抜け出すためにブラジルへ移住します。

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当時国が政策として推し進めていたのがブラジルへの移住で、それを信じたようです。

しかし渡航中の船上で、祖父が毒性のある未熟なバナナを食べてこの世を去ってしまいます。

アントニオ猪木さんは、自分をかわいがってくれた祖父が「乞食になっても世界一の乞食になれ」との言葉を今でも覚えているそうです。

その言葉通り、おじいさんの遺体を日の丸の国旗にくるみ、海に流しました。

当時の日本は戦後の不景気で失業者がたくさんいたため、政府がラジルに行けば広大な土地と安住できる場所があるとあおり、ブラジルへの移住をすすめていたそうです。

 

奴隷労働の日々

アントニオ猪木さんはブラジル到着後、サンパウロのコーヒー農園で働くことになります。

そこでコーヒー豆の収穫を中心とした仕事をしていましたが、朝5時から夕方5時までというかなり長い労働時間で、作業が終わってから小屋に戻って着替えると、Tシャツに汗の塩分がしみ込んでおり、Tシャツが固まって立つほどの汗をかいていたそうです。

作業のたびに手がずるむけて血まみれになってしまい、まだ少年だったアントニオ猪木さんは痛みをこらえながら労働をこなしていました。

労働契約は1年半でしたが、その間何があってもこの農園で働き続けなければならないという契約を結んでいました。

そのため途中で逃げることはできず、ただひたすら耐えるしかできませんでした。

そん中、アントニオ猪木さんは日本では運動音痴として馬鹿にされていましたが、ブラジル移住後に陸上選手としての才能が発揮され、砲丸投げなどの大会で優勝するようになります。

 

砲丸投げで優勝→力道山からスカウト

そして、1960年4月11日にサンパウロを訪れていた力道山さんと出会い、スカウトされて帰国後、日本プロレスに入団します。

力道山さんといえば日本プロレス界の重鎮ともいえる伝説的プロレスラーですが、力道山さんの出身地は北朝鮮なので、アントニオ猪木さんに北朝鮮との縁が芽生えます。

帰国後トレーニングに励んだアントニオ猪木さんは、プロレスラーとしてジャイアント馬場さんと同日にデビューしました。

アントニオ猪木さんが議員になった現在も北朝鮮問題にかなり肩入れするのは、師匠・力道山さんが在日朝鮮人であったからですね。

アントニオ猪木さんは1989年に国会議員となり、その後北朝鮮を訪問する際、訪問理由するかを問われたので、「力道山の弟子として」と答えます。

日本の国会議員という立場でありながらそのような発言をしたため、批判されることもあったそうです。

 

力道山さんが在日であることを知ったのは、1989年にスポーツ平和党党首として政治家になってからでした。

付き人時代は、その事実をまったく知らなかったそうです。

当時相撲番付には力道山さんが「朝鮮出身」と書いてあったそうで、アメリカに行ったあとに朝鮮人なことを隠していました。

力道山さんが亡くなって日本プロレスが衰退していくと、アントニオ猪木さんは新日本プロレスを立ち上げっます。

一方ジャイアント馬場さんは全日本プロレスを立ち上げ、日本プロレス界が生まれ変わったのでした。

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